お前が言うなフルコース

書く価値もなければ、書く資格も無いようなことを、自分を棚に上げたり誰でも言えるのにわざわざ書いたりする。

断捨離とビーガンには近づくな

片付ければ片付けるほどゴミが出てきてムカつくな、俺はゴミにまみれて生活していたのか?ってさ。要らない家具家電が多すぎる。

粗大ゴミ捨てるためのシールのせいで4,5000円くらいかけてるの馬鹿らし。

断捨離とビーガンには近づくなとよくいうが、捨てれば捨てるほど清々しい気分になるぜ。

自分自身が「場所を取られる」ということにストレスを感じるタイプの人間だということを実感する退去準備である。

家電は、パソコン、プリンター、ルーター、洗濯機、冷蔵庫、電子レンジだけ、家具は机と椅子だけで良かったな。

あとのものは持っていても場所をとったり汚れたりするせいでむしろ生活の質が下がるね。

次一人暮らしするときは、できるだけ家具家電は持たないようにする。

炊飯器→圧力鍋(そんなに米食べなくても生きていけるし、米を置いておくこと自体すらストレスになってきた)

トースター→コンロ内蔵のもの

本棚→読まない本は箱に詰める

衣装ケースと服かけるアレ→ダンボール製にする、かつ着回しパターンを減らす(これが1番精神的な圧迫感を取り除くのに効く)

掃除機→拭き掃除でこと足りるくらい狭い部屋で暮らす(部屋の広さと生活の余裕は関係ない)

湿布とか掃除道具が入ってるなんかよくわからん棚→箱に小分けにする

ベッド→布団
ローテーブル・コタツ・ソファー(ないけど)・テレビ→代わりも要らない

なんか、生活を便利にするはずの家具家電に、むしろ圧迫されていたんだなあと実感。

等価交換の法則

「等価交換は弱者を慰めるための言い訳」、実に言い得て妙だと思う。結果に結びつかない努力・無償の愛の存在を認めることになるから。

「人並みに暗記と単純作業ができるだけで、学問
を修めるに足る資質・体力・動機は無い。でも、家庭環境に恵まれ、五体満足だったおかげで、特に大きな怪我も病気もせず、また、生活に困ることもなく、24歳まで学生やらせてもらいました。苦労・努力・我慢を知らずに甘やかされたけど、資格や職にありつけてどうもすみませんでした。」

ここまで言わないと気が済まない社会人の層がまあまあ分厚いみたいです。

人生の方向性・着地点は銃弾のそれに似ていて、発射台で大部分が決まり、余剰は発射後に当てられる刺激次第で少し左右される程度。「本当の意味で」自分でどうこうできる部分は無い。とっくの昔に分かりきってることなんだから、いい加減割り切って欲しいんですけど。

どんな勝負もいつだって結果は始める前から決まっている。なのに、自分の運の悪さや、自分の環境の不遇さを認めたくないから、努力次第で結果を変えられる(変えられた)と思い込む。

努力次第で結果を変えられるとしても、それは「方法次第」という意味であって、「量次第」という意味ではない。そして正しい方法にたどり着くためには量が必要、つまり、量の多さはスタートラインでしかない。

「結果が欲しいなら人より努力するのは当たり前。」

なのに、結果に結びつかなければ努力という代価の「量」が足りないとみなして無理矢理奮い立たせようとする。

その一方で、報われない努力の存在を認めない。無理かもしれないし無茶かもしれなかったけど、無駄だとは思いたくない。

なぜなら「努力は報われる」と信じ切っているから。結果に結びつくはずなかったことを受け入れられないから。そう思ってるうちは方法を変えたり探ったりできないし、しようともしない。

何なら、結果以外の価値を無理くり見出して無駄じゃなかったと言い張る。けど、努力が無駄じゃないのなんて、当たり前。必要だとは限らないのも、また当然。「無駄じゃない」と「必要じゃない」は簡単に両立するんです。

ここまで「報われない努力の必然性」を割り切れたらどんな後悔や未練でも消化できる気がする。後悔は、「選択肢ごとにメリットデメリットが存在すること」・「その判断材料が足りなかったこと」をわかってないから起こるだけ。言い換えると、後悔する体質の人が後悔するのであって、選択肢のせいではないと思う。

少しずつでも割り切っていきたい。

某所の流れ星について

私の交際相手に、「彼氏がいる女性を好きになった(ここで爆笑)男友達」が恋愛相談乗ってたときのメモ書き(2020年・夏)。(助けて欲しいとか言ってきてたらしい)

彼女には本当に優しい人なんだなと感心する反面、男が本当に気持ち悪い。私の交際相手と恋愛相談(二度目の爆笑)を通して距離縮めようとしてる可能性が無いとは言いきれないし、そうでなくとも、優しさに甘えて同情してもらおうとしてるだけだよね、結局。

なぜなら、恋愛とかいう答えが好きか嫌いかしかないシンプルな分野で相談しないとわからないことなんてそうそう無いもんね、お前がそのシンプルな答えからいつまでも目背けてるせいで悩むんだもんね。こんなことロクな恋愛経験積んでない私でもわかるわ。

てか彼氏彼女配偶者いる相手との交際or自分に興味無い相手との交際を諦めない人らって、自分のこと純愛だとか一途だとか思ってんのか?普通にキモいよ。迷いがないから尚更怖い。

そもそも本当に好きなら相手の幸せを最優先して身を引くよね、独占欲とか性欲とか執着とか見栄とかそういう手前勝手な欲のウェイトがデカすぎるから身を引けないんだよ。

今のお前じゃパートナーにするに値しないってだけの話なんだから、恋愛以外のことに視野広げたり、自分の弱さと向き合ったりする努力なしに小手先だけでなんとかしようとするくせに、一丁前に欲だけデカいから尚のことキショいわ。

甲斐性なし

あくまで主観だが、やたらと結婚したがる男は自信が無さそうに見える、法で縛らないと満足・安心できないことの裏返しだから。(弱々しく映る)

あくまで主観だが、子供を欲しがる男は他人の痛みに鈍感そうに見える、妊娠・出産およびその後における費用・手間・リスク・後遺症をイメージできていたら、男側に妊娠出産の選択権があるとは思わないはずだから。(図々しく映る)

「交際している女性に対して、結婚願望・出産願望がある男性」だって、それらの願望を持たない男性と同様、配慮や甲斐性に劣るのでは?という話(私の周りの10人前後に向けて)。女性の結婚願望・出産願望の根源はわかりません、私は女性じゃないから。

それはさておき、交際女性と同じ方向を向いて目の前の事象をある程度、丁寧に捌いていたら(必死とは言わずとも)、「子供」の入る隙間が無い、つまりは自分たち以外の人間をお世話したいと思うだけの余剰の時間も体力も無いはず、自分ですらそう思う(何事にも片手間でほどほどしかやってないのに)。そして、結婚する必要すらない、目の前のことに夢中なら浮気する余地がないから。

その理屈(もとい主観)に則ると、(自分の主観では)結婚でうまくいく人(日々の目標があるが故に精神的に自立している人)ほど結婚したがらないという本末転倒が起こる。

まあ、何事もそういうものか。「何かに憧れる・羨むとき、対象の実態を明確にイメージできていないことが多い」というパターンがこの分野においても反映されているだけ。

かく言う自分は子供こそ要らないが、求婚しまくっている。この事象に、相手を好きなこと以外の理由を上に書いた主観に則って導くと、
「自信がなくてストレス耐性が低い」という自分の未熟さが浮き彫りになる、これはこれで甲斐性がない。

ヒマでありたいが故にヒモでありたい

「時間の無駄遣い」以上の贅沢は無いし、「時間が勿体ない」と思うことが何より勿体ないと断言する。
我が人生、「どうせ暇なら有効に使おう、何かを成し遂げよう」という思いで半端に取り掛かって投げ出したことの多さよ。
今にして思えば、「暇なら暇に越したことはないんだよ、生きているうちに行う大概のことは、暇を得るために取り組むんだから。」という話である。
何者かになりたい人間にとっては、シラフでいたら暇を持て余すことに耐えられなくてせかせか働いてしまうわけですが、私は何者になれなくても良いから「暇」を謳歌したい。だからヒモとして養ってください、隅で良いから置かせてください、「暇」以上の贅沢は要らないから。
その点、囚人やら無職やらって凄いよな、いつだって「暇」たっぷりだもん、ちょっと憧れすら覚える。
話は少し飛ぶが、我々は、大なり小なり、常に何かの枠に囚われており、社会からの刺激と快楽に振り回され続ける。
ときには常識に囚われない発想という常識的な発想、型にハマりたくない人間が陥る型、普通でいたくないと言う普通の感情などを抱える。その外部からのノイズの渦中においても、できるだけ外側に意識を奪われないように、程よく遮断しつつ、自分の内側のその更に内側に眠る欲望を越えた渇望に耳を研ぎ澄ませる。
そういった自分との対話を無意識下で最大限楽しめるのも「暇」の旨味だし、それはそれで「正解」の掴み方の1つだと思います。
足掻く藻掻くとにかく動くだけがじゃない、立ち止まって一旦投げ出したり戦略を立て直したりして、気が向いたら試せば良い。どう転んだって最悪死ぬだけ、大抵のことに意味は無い。
という暇人の言い訳でした。

「指導者」アレルギー

自分の正義を貫くことは他人の正義をねじ曲げること、だから、正義を貫くためには金をばら撒き権力を振りかざす必要がある。しかし、それはエゴであり正義と言えない。正義は貫き通せた時点で正義じゃなくなるという話。

「正義」は個体ごとに存在する、「正義」は個体の外側に貫けない、この2つは相反しているようだが両立しうる。

言い方を変えると、率先して何かを正そうとしたり、取り仕切ろうとしたりする人間には、そうしようとするに至るだけの理由がある。

①誰かに頼まれているか、見返りがある。
②正義を貫く=エゴであることに無自覚なほど未熟である。
③シラフじゃない=シラフで生きていけないほどストレスを抱えている。
のどれか。

だって、自分の正義を貫けるにしても、リターンに見合わないと思うんですよ、率先して先導したり、取り仕切ったりする労力って。それにある程度自分の人生ちゃんと生きてたら目の前のことを捌いたり自分の居場所を守ったりで手一杯になるから、体制や環境、社会課題を何とかしようとしてる場合じゃないはずなんですよね。

僕が『対学生か否かを問わず、「教育」に自ら関わろうとする層』に薄気味悪さ・胡散臭さを感じるのは上記①〜③を認めないことなんだよな。これが指導者アレルギーです。

学校の先生を筆頭に、学習塾・予備校講師・何たらセミナー講師・少年野球の指導者などなど。

同時に、多くの人が親になろうとする理由も上記①〜③だと思っている。もっとも学生以降の人生について明確にイメージできていないと、何も抱えずに生きていくには物足りなすぎるという面もあるだろうけど。
ゆえに、親にも先生にも「感謝」を押し付けられる筋合いなんてないわけです。
「感謝」なんてしたいときにするし、押し付けられると感謝したいもんもしたくなくなるってなもんです。

詳しいことは次の記事に書きます

小学四年生から大学四年生まで続けさせてもらいましたが、正直、部活動なんて無くなれと思っています。

自分に関していえば、部活動での出会い・学びには価値があったとは思うことは強調します。

しかし、素人が素人を教える構造とか、テキトーな大義名分を使って外注すべき事務作業・土木作業の押し付けとか、指導力・体制の格差を努力でカバーする感じとか、システムとして欠陥が多すぎます。

このコロナ禍で何か変わればと思います。かくいう僕は絶賛永劫帰宅部だけど。

特に現行の少年野球と公立中学校のシステムにこの島国の陰湿さがすべて濃縮還元されていると思っています。野球を槍玉に上げる理由は、スタンド応援とか父兄のサポートとかクソ長い練習時間とか「熱意の悪用」が前提で、その前提が美化されているのが特に顕著に思われるから。

未だに俺は中学教師と野球部時代の父兄の全てを憎んでいます。もっとも俺の人生が本当の意味で動き出したのは彼らを憎み始めてからなので同時に感謝しています、憎んでも憎み足りません。(この書き口で生い立ち以外のことを書くのかって話ではあるけど)

彼らがろくでもねー理由は「他人をどうこうしようとする」点にあります。いい歳こいて必要も無ければ頼まれても無いのに「率先して何かを取り仕切る」人間には大なり小なり情緒に欠陥がある、仮に初めは無いように見えてものちのち浮き彫りになるもんです。


何かグダったので次の記事で仕切り直します。