お前が言うなフルコース

書く価値もなければ、書く資格も無いようなことを、自分を棚に上げたり誰でも言えるのにわざわざ書いたりする。

DINKs志望なりに

大人ですら泣いても整理できないこと多いから、電車内だろうと子供が泣いているとき母親は無理に泣き止まそうとしなくて良い。
子が泣くとき、大抵の男親は何もしてないからね、あえてこういう言い方するよ。
というか浮世は辛い、子供が泣くことくらい許してやれ。寄り添えないなら黙っとれ。
もっとも僕自身は子供を設けるつもりは無いし、交際相手以外の女性を大切にできるほどの余裕もないから言う筋合いないんだけどね。
個人的に泣き止ましたり、励ましたりされるのって幼少期「微妙に」うっすら苦手だった記憶がある。今にして思うと元気でいることを強要されている風に感じてしまっていたんだろうし、気持ちを受けとめてもらえていないように感じていたんだろう。
落ち込んでいる人を見ているだけで滅入ってしまう気持ちはわかるし、他人の泣き声ってまあまあのストレスなんだよね。
いつからか他人の不幸は普通に苦くなった、蜜の味なんかしなくなった。寄り添う方があやすよりしんどい。極端な言い方だけど一緒に地獄に落ちるわけだからね。
ただ毎回毎回受け止めてあげられないからさあ、冷たく思われてでも何とかしたくなるよなあ。
なんて考えているとますます子供なんて持てない、どれだけ尽くしても尽くしきれていない罪悪感に苛まれること受け合い。

将来の夢、カス文化。

若者の現実を豊かにすることを疎かに、その身に余る目標を「将来の夢」なんてオブラートに包んで抱かせる文化を憎み始めて久しい。
あまつさえ、見に余っていればいるほどに価値がある的な物言いが昔から蔓延っている憂き世を私は許せねーですね。将来どころか過去にも現在にも夢なんてどこにも無いし、どこにも無いから夢なんです。
平成男児の例に漏れない私も、仮面ライダープロ野球選手、箱根駅伝、お笑い芸人エトセトラの夢を抱き諦め手放してきました。すべての悪を飲み込んで自分の夢を実現することが正しいやり方だと思っていた時期もありました。
しかし、それらは余りにも大きすぎる。我々にできることは目の前のことしかなく、何かを成し遂げたとしてもそれは目の前のことを捌いていった蓄積の上澄みなんです。
恋愛や結婚においても「夢」見させすぎだと思います、各種メディア。フィクションのロマンスに当てられて、夢を見るのは勝手だが、パンピーの異性にタダで夢見せてもらおうなんていささか虫が良すぎる、少なくともこの国には異性に夢見せて稼ぐことができる職業があるわけだし。
かく言う私は凡庸・普通に華の無い人間で、そもそも交際相手に夢を見せることはできないから、かく言う資格は無いかもしれないけど、夢を見せ合うためでなく、お互いの現実をより豊かにしていくための交際をしていきたいです。

まあ、いずれにせよ。
いつだってあると思います、自分よりも夢よりも大事なものは。

何もできない

組織や枠組みの中で自分の役割を懸命にこなしていれば、個人の裁量はトップも末端も等しく小さいことを痛感するもんです。
だから、体制や個人を変えようとするより自分がいるポジションを動いた方が手っ取り早いし、異を唱えている時点で懸命でないです。
若いうちに夢に向かって努力する価値はここにありまして、要は自分のキャパシティーを痛く把握するためです。
いい歳になって夢を諦めきれない層がたまにいるけど、諦めが付くほどやり切ってないんだと思います。
同時に、個人の意見を尊重するという体で見放すことのハードルが下がった昨今で、呆れられていることに無自覚なまま、肥大化した自己を野放しにする一方、現実を豊かにしようとせず、夢を語り、反権力に身を置くのは自分の目にはいささか未熟に映ります。
何かを変えるのは数の多さと声のデカさしかないんです。意気地に欠いた物言いですが、自分の代わりはいくらでもいる割に、死んでも守らなくてはいけないものは多くないので、逃げるが勝ちです、何事も。
我々は何かを取り戻そうと振る舞っているが、その実、何も失っていないどころか、最初から何も持ち合わせていません。そういうわけで何をするにも身軽さを最優先するようになりました。
立ち向かう強さより身を引く潔さを、我慢・忍耐より方向転換を

野ブタ"に"プロデュース

交際相手の魅力は見えにくいほど価値があるし、何も魅力がないなら浮気の余地が無い点で魅力的である。だから太らせて脂肪に埋めたいし、お洒落させたくない、野ブタ"に"プロデュースしたい。
タイトル回収がサムネにギリギリ間に合っていないことはさておき、宝物は人前に出したくないんですよ、私は。
だからSNSの内外問わず惚気話や交際相手のスペックでポケモンバトルする層については「気持ちはわかるけど、満たされていないんだろうな。」と思うし、相容れない。
SNSなんてただでさえスマホユーザーの心の飢えが生み出した場所をわざわざ選んで、色恋や交際とかいう大概の人が何かしらで上手くいってない分野での順調さをひけらかせば、大なり小なり逆恨みなりで買って当然の反感を冷静に考慮できない時点で正気じゃないですよ。自慢は不安の裏返し、暗示かけないとやってられないんだと思いますわ。
そういうわけで常々「美味しそうに食べる顔が素敵(なのは俺だけが分かってれば良いから吐いてでも食え)」「化粧してる時間が惜しいくらい早く会いたいし、そのままが一番素敵(どこ切り取っても一番だからできるだけ人目に付いてくれるな)」などと言っている。
交際相手の良さなんて誰にも知って欲しくない。誰の目にも魅力的に映らないにも関わらず、自分だけが交際相手の魅力を知っているのが理想だけどそういう訳にもなかなかいかない。
未だ誰も勘づいてない魅力を検出したいし、未だ誰も見出してない泉を発掘したいし、未だ誰も捕まえてない火種に着火したいし、未だ誰も踏み込んでない時へ拐かしたい

俺は優しい!!!!!

私は、本当に人並み以上に優しい人間なんだ、ただ、優しくする方法を人より知らないんだ、これだけは信じて欲しい。
椎名林檎オタクの例に漏れず厨二病が完治してない程度には、未熟かつ純粋で共感性が高いんだ。平均・中央値より優しいので、曖昧なまま、抱え続けることが好きではない、モノに限らず、人間関係然り。素直で単純だから、冗談が通じなくて、妙なところで敏感。
そういうわけで自分自身のキャパが少なく、物欲・購買欲の逆が強い。言うならば解体欲・廃棄欲。
こういう欲を持つ自分のことを冷たい人間なのかと思っていたし、気が利かないって何度も言われるけど、実際は逆で、優しいからこそ変なところに気づくから、相手が気づいて欲しいことに気づけないこと多いと思っています。てか、気が利かないってなんだよ、して欲しいことがあるなら言えよな。今の一行は対象を取りません、悪しからず。

生活空間にモノがあればあるほど、圧迫感を覚える。もう会うことは無いんだろうなと思うだけで連絡先を保持していたく無くなる。納得してないときや興味がないときに相槌が打てない。私が優しいからなんです、これ全部。

つまり、私の「根が良い」んです。そして、これが「根が良い」の実態です。根が良かろうと、茎や葉が良くなければ、迷惑なんです。「根が良い」なんて言い訳なんです。第一、表に出た発言なり行動なりが嫌なのに「根が良い」って何?裏や内側に興味無いんですけど。

独善的正直者

バレンタインを口実に交際相手にカロリーをぶち込み、脂肪という名の男除けを蓄えさせようかと企てていたが、今年は僕の服を送ることにしました。
この前もう着ないコートあげたらかなり喜んでたので、いっそ着ないなら衣装ケースに寝かせておくより必要な人に渡そうと思ったからです。
男性だからできることですよね、女性→男性に服あげるの無理ですからね。自分が今まで着てた服をこれだけ喜んで受け取ってもらえるならいっそ持ってる服全部送って新しく買い直してやろうか。
安く済ませようとしたわけじゃないです。むしろ普通に服買うよりお金かかります。何なら、プレゼントはゲキアツ恩着せタイムと捉えているので、贈り物にはお金を払えるだけ払っておきたいと思っているくらいです。
そんな感じで僕は自分勝手な人間で、自分のための理由が無いと人に優しくできないし、したくないんですよね。
100%相手のためにモノをあげるとか何かしてあげるとかできない、同時に100%相手のために親切で何かしようとする人間を信用していない。
見返りを求めるのなんて当たり前で汚いことじゃないんだから、見返りが無い体で擦り寄るなよって思ってしまう。そして、ここに僕の生きづらさの1つがある気がする。
あと、バレンタインにしろ、クリスマスにしろ、君が喜んでる顔が見たかったからとかツラツラ言えたらもう少し生きやすいんだろうな。言えませんよ、めっちゃ白々しくなるもん、嘘つけないから。

そもそも論

"そもそも"原因と結果の認識が逆だと最近よく気付く。厳しい環境は人を強くしない、元々タフな人間が厳しい環境に耐えられる。とか。
他にも、朝食を摂ると家庭環境が良好になるのではなく、家庭環境が良好だから朝食を摂れる。本を読むから賢くなるのではなく、賢いから本の内容がわかる。結婚することで自立できるのではなく、1人でも生きていける人間が結婚できる。創意工夫で乗り切る大事さや有り物でなんとかする技術は、創意工夫で乗り切る必要がない環境で磨くことが出来る。みたいな話。
そういうわけで目に見えることを鵜呑みに信じるだけじゃなくて何事に対しても前提がそもそも違う可能性を常に疑っていたい。今までの人生、大事な場面で立ち止まって疑うことができなかったのは、疑えるだけの余裕がなかったから、精神的にも他の諸々の面的にも。
ただ自分がしてきたことや信じ続けてきたことを疑うのは結構なストレスで、多分、人間は疑い続けることに耐えられるようにできていない。
感覚を研ぎ澄まして疑えば、より正確に見定められるが、外部からの刺激もより敏感に受け取ってしまう分、じわじわすり減る。感性と余裕は常にトレードオフの関係にあるということです。
こういう話に限らず、あらゆる「気づき」に対して、気づいたときは、気づくの遅かったなってもうちょっと早く気づけたら人生変わってたなって自分を責めるんですけど、気づいたときが1番早いんですよね、実は。
たしかに他人より遅いかもしれないけど、自分は今より早く気づくことはできなかった、それだけ。それだけでしかないから「気づきの遅さ」を前向きにも後向きにも受け止めず、飄々と・淡々としていたい。